あれ、これ、それで通じる相手は、何を共有しているのか

省略した言葉が通じることも、混乱を招くこともあります。共通の背景がある場面とない場面を分け、名前を添える工夫を考えます。

会話で「あれを先に見て」「それは後でいい」と言っても、すぐに手が動く相手がいる。一方で、同じ言葉を聞いた相手が何を指すのか尋ね直し、気まずさだけが残ることもある。例えば、二人で同じ表を開いている最中なら「あれ」は画面上の一行を指せるかもしれない。しかし、席を離れて短い連絡だけを受けた人には、候補がいくつも浮かぶ。指示語が多いこと自体ではなく、言葉の外側に何を一緒に見ているかが、通じ方を分けている。

省略は、親しさや仕事の速さを示す合図として扱われがちである。けれども、相手が同じ前提を持つかは、関係の近さだけでは決まらない。いま目の前にある資料、直前に交わした話、作業の順番、誰が次に動くかまで重なっているかを見れば、具体名を足す場所を選びやすくなる。

指しているものが一つに決まるか

指示語が近道として働くのは、聞き手の頭の中に候補が一つだけ立ち上がるときである。たとえば、同じ机で一枚の申込書を見ていて、片方が特定の記入欄を指しながら「ここは空けておいて」と言う場面では、「ここ」と申込書の欄が同時に見えている。声に出した語は短くても、指さす動き、画面の位置、直前に読んでいた項目が名前の代わりをしている。聞き手が返事をするまでに資料を探したり、候補を比べたりしないなら、共有物が参照先として機能していると考えられる。

反対に、同じ二人が別の場所で連絡を取り、「あの修正を先にお願いします」とだけ伝えると状況は変わる。前日に直した案内か、今朝届いた表か、次に公開する原稿か。話し手には一つでも、聞き手の手元には複数の「あの」がありうる。ここで見る基準は、互いに同じ資料を知っているかではなく、その瞬間に同じ版・同じ箇所・同じ優先順を選べるかである。過去に一度共有した資料でも、その後に更新があれば、参照先は一つに定まりにくい。

また、口頭では通じたように見えても、次に動く人が会話にいなければ意味が引き継がれない。会話の参加者には「それ」で足りても、後から読んだ人が対象を復元できない連絡では、作業の入口が消える。省略の可否は、話し手と聞き手の間だけでなく、その言葉を手がかりに動く人の範囲まで含めて判断できる。

近道になる省略と曖昧な省略

毎回、資料の正式な題名や細かな経緯を最初から言えばよいわけではない。共有中の画面で「次はこれを確認しましょう」と言えるなら、言い直しを減らし、視線を作業に残せる。定例の手順で、前の工程と次の工程が一つずつ決まっている場面でも、短い言葉が会話のテンポを保つことがある。省略が近道になるかどうかは、語の短さではなく、聞き手が補う情報の量で見分けられる。補う必要がほとんどなければ近道であり、記憶や推測を何度も探るなら、短く言っても会話全体は速くならない。

例えば、仮に三つの連絡文を同時に直している場面で、「それ、昨日の担当に回して」と言われたとする。聞き手が一度止まり、三つの文を見比べてから「どれですか」と尋ねれば、話し手は対象を言い直し、聞き手は判断をやり直すことになる。この往復は、聞き手が注意を払わなかったためと決めるものではない。どの連絡文か、いつの「昨日」か、誰が担当するのかという手がかりが、言葉の外に置かれたままだったために起こりうる。

曖昧さを見つける観察基準として、返事の速さだけを使わないほうがよい。返事が早くても、同じ対象を指せているとは限らないからである。送った後に、相手がどの資料を開いたか、何を終えたものとして返してきたかを見る。想定と違う資料が動いた、対象を確認する質問が戻った、次の人が参照先を尋ね直した。このいずれかが起きたときは、指示語の数を数えるより、名前を補う位置を探すほうが役に立つ。

重要な箇所だけ具体名を足す

すべての「あれ」「これ」「それ」を言い換える必要はない。特に具体名を足したいのは、相手が別の資料を開く瞬間、期限や優先順を決める瞬間、担当が変わる瞬間である。雑談の途中で目の前の物を指すときまで説明を長くすれば、かえって話題が見えにくくなる。反対に、作業の対象や次の動きを決める一文では、資料名、日付、担当のうち不足しているものを一つ足すだけで、聞き手が探す候補を減らせる。

例えば、修正前の「これ、明日までに見てもらえますか」は、同時に複数の文書があると対象が残る。『5月12日の申込み案内を、明日までに佐藤さんに確認してもらえますか』と直せば、資料名に当たる言葉、日付、確認を担う人が一文に入る。ここでの佐藤さんは仮の呼び名であり、実在の人物を指さない。同じように「それを先に」は、『今朝届いた参加者一覧の重複を先に確認する』と、対象と行為を結び直せる。正式な名称が長い場合は、最初に一度正式名を示し、その会話の中では短い呼び名をそろえる方法もある。

一手として、送信や引き継ぎの直前に、指示語のある一文だけを見直してみる。その言葉を受け取る人が、画面を開かずに「何を」「いつのものとして」「次に誰が扱うか」を言えるかを考える。三つすべてが必要とは限らないが、答えが一つに定まらない項目だけは名前に直す。緊急の連絡や既に決められた連絡手順がある場面では、この見直しのために伝達を遅らせず、定められた表現と順序を優先する。

この考え方は、資料や作業が複数あり、会話の後に別の人も参照して動く場面で特に役立つかもしれません。一方で、同じ画面を見ながら指さしている最中や、既に対象が一つと決まっている短い応答まで、すべてを正式名に置き換える必要はありません。大切なのは、省略の多さを相手の性格や能力の判断にせず、その時点で参照先が一つに定まるかを見ることです。

次の連絡では、「あれ」「これ」「それ」が入る一文を一つだけ選び、受け取った人がどの資料を開くかを迷わず言えるように、資料名・日付・担当のうち一語を足してみてください。その後、質問が戻ったかではなく、意図した対象が実際に開かれたかを見ます。省略をなくすためではなく、必要な場所にだけ共通の目印を置くための、短い試し方になります。

このテーマの記事を読む伝える・聞くへ戻る